今年の2月に仕事を変えた話 その1
さて、どこから話したらいいものか。
去年の7月末にオーストラリアから帰ってきて約1か月はブラブラしていた。
ブラブラというか、気が付いたら過ぎていた、というのが正しいかもしれない。
遡ること2年前、オーストラリアに行く前は大学で非常勤として働きつつ、自分の学位のための研究も並行して行っていた。それらをほっぽりだして留学し、日本へ帰国したわけだが、まだ学位申請の機会が私には残っていた。幸いにも。
という事で、再び大学研究室へ戻り、週1で研究室業務を行う傍ら学位申請準備(要するに論文執筆)をする事を許してもらった。
しかしながら週1の微々たる収入では生活ができないわけで...実家暮らしだったけど。一度は自立して生活したのだから、再び“低収入&実家暮らし”のWパンチに戻ることは自分的に許せなかったのだ。
そんな折に、とある会社でバリバリ働く先輩からありがたいお言葉を頂いたのだった。
バイトを雇おうと思ってるんだけど、もし募集あったら応募する?
先輩は神様ですか。
スルリスルリと話はまとまり、私は先輩の在籍する会社にてアルバイトの身分を頂き、先輩の隣のデスクで仕事をすることになった。
それはそれは良い会社で、もう本当に最高の会社で、、、この話は機会があればその時に。
かくして私は3足のわらじをはく独女となった。(この時は彼氏ナシ<3)
収入としての重要度はもちろん1>2>3。
でも自分の人生としての重要度は3>1>2。
別に大学での業務を軽んじている訳では無いが、慣れた作業なのでもはや日常業務の範疇。。
ということで、2015年9月~2016年1月末に存在した3足わらじ女誕生の話だったのでした。
つづく。
留学準備段階の話 その2
ざっくりとしたフィジー留学、そしてワーキングホリデーへの出発を決めてからは、少しでも英語の勉強をしてから旅立とうと決めた。
ちょうどよく、留学エージェントが主催する英会話教室が開かれていたため、週1回の頻度で英会話へ通うことにした。
英会話教室の先生はフィジーの先生だった。そのため、留学先での授業に近い形で勉強をすることができ、これは大変役立った。
なぜなら、おそらくではあるが、この語学学校の授業は通常の学校とは趣が異なると思うからだ。(こればっかりは説明が難しい。使う教科書は一般的でも、先生の雰囲気や印象が普通とは違うと思う。簡単に言うと、先生のキャラが濃い、の一言。)
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この英会話教室に約5ヶ月通った。週1回と言う少ない頻度のため、そこまで英語力は向上したとは思えなかったが、英語に触れる環境を常に持つことは重要であると感じた。これはこれで身になった。
留学準備段階の話 その1
2013年8月のある日、ふと「留学しよう」と思い立ったのが始まり。
以前から知っていた留学エージェントである、South Pacific Free Birdの説明会に申し込んだ。
www.southpacificfreebird.co.jp
2013年9月に説明会に参加し、後日留学の申し込みを行った。
説明会に行った時点で「行くのどうしようかな・・・」という思いは無く、
「どれくらいの期間行こうかな」という考えしかなかった。
この説明会に参加したことによって決心したことがある。
それはオーストラリアのワーキングホリデービザを取得することだ。
www.jawhm.or.jp
ワーキングホリデービザとは
- 30歳までの人が取得でき、1年間オーストラリアに滞在することができる。(条件によってはセカンドビザの申請もすることができ、合計2年間滞在することができる。)
- 目的はホリデーであり、”お金を稼ぐこと”を目的にしてはいけない。
- 1つの就労先では半年間のみ働くことが出来る。
ビザを取得できるギリギリの年齢だった私。(通称ギリホリと呼ばれる。)
ワーキングホリデー制度は昔から知っていて、密かに憧れていた。
でも1人で海外に住むなんて勇気がなかった。(→これで諦める人が多い。)
しかし、この頃の私は何かが吹っ切れていた。
そこで大まかな海外計画を立てた。
- 3か月間、フィジーで語学留学を行う
- その直後にオーストラリアへ渡り、1年間ワーキングホリデー行う
すごくざっくり。
でも自分の力で海外生活への第一歩を踏み出したことで、ワクワクした気持ちでいっぱいだったことを今でも覚えている。
(次回へ続く)