4月以降の身の振り方
今年の4月以降、私の予定は白紙である。
3月末で仕事の契約が切れるためだ。だから現在は転職活動真っ最中。
仕事探しは主に、
- 某社エージェントを利用
- 友人からの紹介
である。
某社エージェント
初めに面談で聞き取りが行われ、個人の要望に沿った求人を探して紹介してくれる。
自分でコレと思った求人に応募をすると、書類選考へ回してくれる。
書類が通ったら面接日のセッティングをしてくれる。
思ったよりも世話を焼いてくれるので重宝している。一番最初に作成する書類たち(履歴書、職務経歴書の類)が結構面倒くさいけど、どのみち必要になってくるものばかりなので、せかされて作って、少しずつ手直ししていけるので、良かったと思う。
友人からの紹介
実は前に少しだけアルバイトをしていた会社である。ちょうど社員を募集するとのことで、お声をかけていただいた。
大変ありがたい!!
大好きな会社なの!!
現在の状況としては、どちらも書類選考が通った。
エージェントを通した方は、悪い会社ではないと思うし、初めの1年は契約社員だそうだが待遇は正社員と変わらないそうだ。
悩ましい。
しかし、私の本命は友人紹介の会社である。
1次面接結果はもうすぐ知らされるのだが、、2次面接に進めるかなぁ。。怖
どちらの会社を選んでも、私の今まで進んできた道とは全く異なる。
家族(主に母親)には反対されている。
何かしらの研究職に就いてもらいたいのであろう。今までの経歴を生かして。
正直なところ、私自身もその点については迷いがゼロではない。
もちろん面接では強気に「迷いはゼロではないけど超前向きに方向転換です!!」と言って回った。
それも本心の1つ。
今、私は、何をしたいのだろう。
自分でも分からない。
ただ、心から願うのは、人間らしい毎日を送ることだ。
ストレス過多ではなく、終電で帰ることはほとんどなく、家で家族と一緒に夕飯を食べることができる。
そして近い将来には子供が出来て、産休を取って、その後復帰。
つまらない毎日になるのかもしれないし、私がずっと望んできたことかもしれないし、
私自信の望むことはどれなんだろう。
ただ単に家族に反対意見をされているから、私の中で迷いが出ている可能性もある。
何歳になっても家族にとって「良い娘」でいたいのだ。
私が決断をする時、大ゲンカは避けられないんだろうな。
たぶん、それが今の最大のストレス。
山を越えた話
昨日は大事な日だった。
「2010年4月からずっと、この日のために積み重ねてきた」と言っても過言ではないのではないか。
(途中のインターバル期間はあったけれども。。)
博士論文審査会: 30分間の発表、そして1時間強の質疑応答に耐える儀式
実は約3年前にも経験している。
本来はそれで終了するはずだった。だがしかし諸事情により色々タイムオーバーになってしまい、修了は見送りとなったのだ。
2回も経験したくなかったよ、あんな緊張状態...
2回目終わってみての感想。
- 過去の自分はもっとやれる事あったのに、なぜやらなかったのだろう。
- 不足しているところが沢山あるのに、過去の自分はなぜ気付けなかったのだろう。
- 過去の自分は本当に時間が足りなかったのか。もっと効率よく動けなかったのか。いや、動けたはずだ。
- 努力が足りない。
正直、悔やまれる感想しか出てこない。
もう過ぎてしまったことだから「タラレバ」は言わないけど、
過去に戻って自分にゲキを飛ばしたい。もっと努力が必要だと。
こんなに未熟な私でも最後まで指導してくれた先生に本当に感謝している。
私の先生はかなり頭が切れる人で、
私が今まで会った「先生」という人の中では、最も研究について敵に回したくない人だ。
あと1か月半でこの大学からは去るが、
何かの折には訪ねたいと思うし、きっと良く来るかも。
少なくとも、今いるM1が年末には修論提出で超げんなりしているだろうから、
何か差しれに来ようと思う。
来月わたしは、博士という生き物になる。
短期語学留学した話
2014年の5月~8月の約3か月間、フィジーに短期語学留学をしていた。
詳しくは↓
rumi-t.hatenablog.com
フィジーは、赤道をはさんでハワイの向かい側らへんにある南国。
国民性はいたってのんびり、優しい。
決して裕福ではないけど、「家族」で過ごせることができるなら幸せ。っていう風土。
3か月しかいなかったけど、優しい気持ちを取り戻せたし、何に対しても感謝の気持ちを持てるようになれた。
お湯のシャワーを浴びられる。なんて超幸せなの!
こんな具合に。
語学学校では、敷地内での日本語(母国語)がNG。もしも母国語を話すと“イエローカード”を通達される。
そのイエローカードは3枚たまると・・・強制帰国。怖。
幸いにも私は通達されなかった。
(クラスメートは「たくあん」という単語で通達されてた。笑)
住居はホームステイ。屋外と屋内の区別があまりないようなお家で暮らすという初体験。
今後あるかないか(きっと無い)、貴重な経験だった。
家族とも英語で話すことで、英語漬けの毎日を送ることが出来た。
入学当初は中の下くらいだった英語レベルも、卒業時は最高レベルに達していた。
耳はかなり慣れた。大概の事は何言ってるか分かるようになった。
自分の言いたいことを、つたない単語でもいいから、未熟な英文法でもいいから、
「口に出す、声に出す」「話す」
ということの大切さを学んだ。これは英語学習で一番大切にするべきだと思う。
短期留学後はそのままお隣の国、オーストラリアへ。
私にとって一生の宝物となる、1年間に及ぶワーキングホリデーの日々が始まる。
1月が嫌い、という話
久しぶりの更新。
さて、気が付けば1月も終わろうとしている。
私は、1月が嫌いである。
なぜか。理由は無い。
強いて嫌いな理由を挙げるとするならば、
- 年明けはバタバタするから
- 母親が昔から「私は1月が嫌いだ」と言い続けていたから
母親が1月嫌いな理由は①なのだが、
要するに同じ理由か・・・似たもの同士
振り返ると怒涛の一か月だった。
記憶がぶっ飛んでいるくらいに。
仕事は忙しいわ、
論文の締切だわ、
2徹だわ、
転職活動してるわ、
審査会の準備あるわ、
なんやかんや。
久しぶりに味わう、これぞ“てんてこ舞い”。
おかげで、また下血が始まってしまった。。。
2年前と同じくらいの症状だなぁ。たぶん、原因はストレス。
それは置いといて、、、
あと1ヶ月、走りぬこうと思う。
年末年始の話
あけおめ ことよろ
という言葉が流行っていたのはいつだったか。私はど真ん中の世代のはずだが。。
改めまして、
明けましておめでとうございます。
世間のサラリーマンと同じく、私の年末年始休業は12/29~1/3でした。
短いなー。。
私の年末休みは体調不良と共に始まった。
12/28、私の職場は大掃除の日だった。午前中から快調にお掃除。午後の2時に無事終了。
だがしかし、突然の異変は午後3時頃から始まったのであった。
猛烈な下腹部痛&吐き気&だるさ時々震え
ナニコレ。
昼食は普通に食べられたし、同じもの食べた人は体調悪くなってないし。
急いで“腹痛 吐き気”でググるも、出てくる結果は「食中毒」ばかり。
いや、この感覚は違う
と自己診断。でも原因は分からない。
午後5時、仕事を納めて論文作業の部屋へ移る。
引き続き体調は悪い。部屋は暖房で暖かいが体の芯が冷える感覚で寒い。震えてくる。
何でも持っている指導教員に体温計を借りて測定。
なんと微熱、37.5度。
e?ナンデ?
通常の体温が36度以下の私にとって、この体温は微熱の範疇ではない。
この体調では家に帰れなくなる可能性もあり、早々に論文作業も納めて帰宅の途についた。
職場付近まで彼が迎えに来てくれ、フラフラしながらなんとか家につき、
速攻で葛根湯服用、そして就寝。
午後9時前に寝るとか・・・何年ぶり?
寝込んでいる訳には行かなかった。
なぜなら、翌日12/29から2泊3日で彼の地元へ一緒に帰省することになっていたのだ。
そして12/31から自分の実家へ1泊も決定事項だった。
なぜ、、、こんなにも盛りだくさんの年末、、、?
ゆっくりのんびりジャージ姿で家に居たいのが願望なのに。
かくして、葛根湯の力を借りて一晩で全快になり、全ての年末年始予定をこなした。
私、頑丈。
クリスマスだった話
昨日から通常モードだったとはいえ、先週末はクリスマスだった。
例年、クリスマスといえば昼間にデートして夜は家に帰って家族とご飯、というのがパターンだった。
なぜなら、12月25日は父の誕生日だからである。
私がクリスマス誕生日ケーキを買って帰る、これが通常。
でも今年は初めてのパターンだった。(海外滞在時は除く。)
24日も25日も、ずっと、彼と一緒。
24日はイルミネーション見に行って、
25日には彼が予約してくれていたクリスマスディナー。
リア充か。
リア充だな。
正直、同棲中なのだから彼とは毎日一緒にいるわけだが。
でも、彼がレストランの予約をしてくれてご飯に行く、っていうのは実は人生で初めてだったりする。。
(今までに私が予約することはあったけど、私の知らないうちに予約してくれたのは初。今までの彼氏の中で初めて。)
白状すると、すっっごくうれしかった。
私幸せ者だなーと。
一方、家族には23日に会いに行って、一足早めのケーキとプレゼントを渡した。
25日に会えなくてごめんね、とすごく申し訳なかった。
家族は理解を示してくれたけど...ごめんね。ありがとう。
これからの時間、あと何年・何回、両親と時を過ごせるのか、これを考えると涙が止まらなくなるので、とりあえずは横に置いておく。
とにもかくにも、
私は幸せだ。本当に幸せ。
長すぎた春
トイアンナさんに共感だなーと思った深夜2時半。
toianna.hatenablog.com
なぜか、少し前の恋愛を思い出した。
私は2年半前から去年まで海外へ旅立っていたわけだが、旅立つ時には付き合っている人がいた。付き合って4年目の人だった。
彼は一言で表すと〈ストイックな向上心の塊〉って感じの人で、
チャラけるときもあったけど基本的には真面目ないい奴だった。
元々仲の良い友達だった彼と付き合って1年目の時、大ゲンカした。
正直もうダメかも、と思うほどの。
でも逆に「3年目を目安に結婚を考えてるくらい、真剣」という言葉とともに仲直りした。
今思えば、なんで3年目...?という感じだが、当時は嬉しかった。
さらに2年経ち、付き合って3年目。結婚の話はどこかに置き忘れてきたようだった。
彼は脱サラして大学へ行き直すべく、受験勉強の毎日になっていた。
すれ違うことも多く、週1で会えれば良い方な生活。
私は“彼にはやりたい事を思う存分できるようになってほしい”と思い始めていた。
彼の事が好きだったから。
私の方が2歳年上でアラサ―だったこともあり、
自分が彼の近くにいることは彼の人生の妨げになる、と盲目的に思ってしまっていた。
だから、少し距離を置きませんか、と言ったら、
嫌だとはねのけられた。そしてそのまま付き合いは続行。
そこにきての語学留学とワーキングホリデー。
私自身もやりたかったこと&しばらくの間彼を自由にさせてあげられる。これってWinWinなんじゃ、、、
私の頭の中ではピコーンっとランプが光った。
そうして、付き合って4年が過ぎたとき、私は海外へ行った。
自分自身と彼のために。
でも、最後に日本で彼と別れた時、
「あぁ...この関係性で会えるのはこれで最後になるかもしれない」と悟って泣いた。
事実、海を隔てた状況で私達は別れた。私から別れを切り出した。
あと少しで5年目の節目になるはずだった。
日本に帰国後、ほどなくして友人として何度か食事に行ったり遊んだりした。
相変わらず良い奴ではあったが、“いま付き合いそうな感じの子がいる”という話を聞いてブルーにもなった。
彼は希望の大学に合格し、東京から引っ越して行った。
引越し前夜に彼と最後に話をした時、
「帰国後にやっぱり元に戻りたいと言えば、戻れたのに」と言われ、
「でも、もう、前に言ってた子と付き合うことにしたんだ」という報告もされた。
極めつけは「俺みたいないい男振るなんて、もったいないことしたな」とすかされた。
最後の最後にムカついたけど、彼なりの強がりだったのだろう。
今も極々たまにメールをするけど、彼女と幸せそうで何よりだと思う。